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2012/06/14

【解答案】『医歯薬進学』2012年7月号:生殖医療の問題 問題2の別解


月刊『医歯薬進学』2012年7月号:生殖医療の問題


問題2の解答案 別解を以下に掲載します。

★この問題は,1980年代にアメリカで議論を巻き起こした「ベビーM事件」と呼ばれるケース。自由な市場における自由な契約は,どこまで有効なのかというテーマに関する問題である。

★「ベビーM事件」は,不妊のカップルのスターン夫妻(代理出産依頼主)と,自らの卵子と子宮を提供し,スターン夫妻の代理出産を行なったメアリー・ベス・ホワイトヘッド夫人との間の,子(ベビーM)の養育権,代理出産契約の有効性の判断,をめぐる事件で,ニュージャージー州の法廷で裁判が行われた。州の最高裁判所は,全員一致で代理出産契約は無効であるという判決を下しているが,一方で、ベビーMの養育権をビル・スターン(精子の提供者)に認め、また他方で、メアリー・ベスをベビーMの母親であるとしたうえで、メアリー・ベスには、ベビーMへの訪問権を認めた。養育権をスターン夫妻側に与えたのは、子の最善の利益を確保することを優先したためであるとされている。

★以下の解答案は,おもに裁判で争われた論点をめぐる考察になっている。


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【解答案:別解①】契約履行を支持する立場(スターン夫妻の養育権を認める立場)

私は契約の遵守と子の福祉という観点からスターン夫妻の養育権を認める考え方を支持する。

まず,そもそも契約順守という規範は,その契約がいちじるしく不合理なものであったり,不利益をもたらすようなものでなければ,どのような場面においても守られるべきである。そして,この契約順守の考え方が認められるならば,この代理母契約の有効性は、自由主義の観点から導き出すことができる。自由主義の考え方によれば、他人に危害を加えない限り何をする自由も妨げられないから、契約の履行によって誰にも危害が及ばない本契約は有効であり、メアリー・ベスは,約束通り産んだ子の養育権を放棄しなければならない。

また,子の福祉という観点からも,本契約の履行は支持することができる。メアリー・ベスは,家計の安定していない状況において,金銭的なメリットを得ることを目的として代理母契約を結んだのであり,一方のスターン夫妻は遺伝的つながりのある子を持ちたいがために契約を結んだ。したがって,子にとっては,もともと子を望んでいたスターン夫妻のもとで養育されるのが子のためになり,また経済的にも恵まれているスターン夫妻の方が子に有益な養育を与えることができると考えられる。 

たしかに,妊娠や出産という行為は神聖で尊厳に値するものである。そして,そのことを根拠として,代理母契約自体を不正な行為とみなす反論が想定できる。しかし,神聖で尊厳に値するということから、契約や売買の対象にしてはいけないということにはならない。この契約によって、スターン夫妻は遺伝的につながりのある子を手に入れ、メアリー・ベスは1万ドルという対価を手に入れる。したがって,契約時に強制などの圧力が無かったと考えるならば,この契約は双方にとってデメリットのないものであり,正当な契約であると考えるべきである。(762

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【解答案:別解②】契約を無効とする立場1(スターン夫妻の養育権を認めない立場)

私は,代理母の契約時においての同意の不十分さを理由に,スターン夫妻の養育権を認めないという判断を支持したい。

まず,第一に契約時のメアリー・ベスには十分な情報がなく、真の意味で自発的な同意があったとは考えられない。契約において十分な情報がなかったということは、重大な瑕疵である。メアリー・ベスは,妊娠後にどのような感情を抱くようになるか十分にはわかっていなかった。彼女は、赤ちゃんを身ごもって初めてお腹の中の子との絆の強さを知ったのである。

次に,彼女にとっては、生活が苦しい中での1万ドルは、あまりに大きな誘惑になっていたはずである。つまり,目の前の大金に目が眩んで,意に反した契約を結んでしまったということが想定できる。このような状況での契約は、契約を推進したいスター夫妻側に有利なようにリードされざるをえず,彼女が完全に自発的であったとはいえない。

自分が置かれている立場をきちんと理解していることが契約の成立する条件ではないだろうか。自律あるいは自己決定という理念に照らして見ても,同意が自発的でなかったのは、倫理に反する行為である。たしかに,両者は大人であり,形式上は対等な契約を行った。しかし,実質的には,正しい判断に欠ける,対等でない契約になってしまっている。
したがって,以上の理由により,契約は無効とすべきであって,実母であるメアリー・ベスに養育権が認められるべきであると考える。(595


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【解答案:別解③】契約を無効とする立場2(スターン夫妻の養育権を認めない立場)

私は,この代理母契約については,契約そのものがいかに正しい手続きと実態を踏まえていたとしても,倫理に反するものとして無効であると考える。

代理母契約は,子の自律を侵害するものである。妊娠や出産という経験は、親と子の愛情を育む大切で重要な契機である。また,乳幼児の健全な養育にとっても,母親との愛情による結びつきは不可欠である。しかるに,金銭の授受を伴う契約によって,子の受け渡しを決める契約は,とくに母親との愛情や絆を金銭によって引き離す行為であり,認めることはできない。子そのものはもちろん,子との愛情や絆は本来売買すべきものではない。この契約は,人身売買に相当する可能性すらある。人身売買は「買ってはいけないもの」を売買する不正な行為である。

一方で、スターン夫妻はメアリー・ベスから代理妊娠と代理出産という「サービス」を買ったのであり、これは人身売買には当たらないという反論も、もちろん可能ではある。しかし、その子は遺伝的なつながりがある(少なくとも半分はある)子であり,代金の支払いは、子と養育権の引き渡しの時に行なわれることになっている。したがって、この契約履行における金銭の授受は,実質的には「サービス」の対価ではなく、赤ちゃんを「譲ること」に対する対価という意味を持っているのである。

さらに、この契約が人身売買などではなく、妊娠と出産というサービスあるいは労働に対する対価の支払いを定めるものであると解釈できたとしても、そもそも女性の生殖能力のようなものをサービスとして売り買いしてよいということにはならない。この契約は利益を目的ビジネスの色彩を帯びており、出産をビジネスとして扱うことは,社会通念上認められない。

以上の通り,本契約は売買の対象にしてはならない子やサービスを売買するものであり,倫理的にも社会通念上も認められるものではない。したがって,子の養育権は,実際に分娩を行なったメアリー・ベスに認められるべきである。(817

(追補:ただし,スターン氏側は,自分の精子を提供しており,また契約までの金銭的な費用を負担していることが想定できる。違法な取引や強要もなかったと考えれば,スターン氏側への何かしらの補償があってもよいだろう。)


 質問は,http://www.igakubu-juken.jp/からお問い合わせいただくか,info@ijuken.jpにメールしてください。


2012/05/15

【解答案】6月号掲載 第4問目「共感について」の解答案


☆月刊『医歯薬進学』6月号掲載:本格派のための小論文・面接の新技術――過去問演習編
Theme3患者と医療従事者の関係,コミュニケーション)より,紙幅の都合上本誌に掲載できなかった第4問目,「共感について」の解答案を掲載します。

問題4:次の文章を読んで、以下の問題に答えなさい。 
 [日本大学 医学部・医学科 2010年度]


課題文 

私たちは会話をしているときに、
「本当にそうですね」
「それは困りましたね」
などと共感を示す表現をさまざまに使っています。外国語にも似たような言い回しがありますが、日本語のほうが種類豊富で、使われる頻度も多いように思われます。夫婦、親子などの家族、親しい友人との間ではとくに多いようです。

こうした言葉のやりとりでは、アドバイスや解決法を示してもらわなくとも、
「聞いている」
「受け入れている」
「理解している」
という気分を伝えるのが重要なので、具体的解決策ははじめから期待されていません。

また、これらの共感の表現では、たいてい主語ははっきり示されません。相手の話のどの部分に感心しているのかも相手に伝わりません。しかし、こうした共感を示す表現を使うと、自分の意見を詳しく説明しなくても、相手とあたたかい気持ちを分かち合うことができます。

細かいことをあえて言わずに、少ない言葉で相手の気持ちを包み込み、相手と一体になる。それが今までの日本人にとってはコミュニケーションの理想的な形でした。日本人が大好きな禅語である「以心伝心」も少ない言葉でわかりあうコミュニケーションをいいます。もともと禅の教えは「不立(ふりゅう)文字(もんじ)」といわれるように。書物でなく師から弟子に伝授されるものでした。

このようなコミュニケーションは、相手を思いやる気持ちがあって成立するものです。言葉で表現するだけのコミュニケーションよりも、さらに洗練されたコミュニケーションであるといえます。

しかし、「以心伝心」的なものを理想とするあまり、日本人は言葉で表現することに憶病だったり、必要以上の遠慮をしてしまったりする傾向があります。近年書店には、はっきりとものを言うテクニックを解説するハウツー本がたくさん出ていますが、それだけ言いたいことを思うように言えない日本人が多いからでしょう。

言いたいことが言えない、表現できない人のコミュニケーション力を初級としたら、言いたいことが言え、相手に伝えられる人は中級です。しかし、言いたいことを言葉にしていても意図が相手に伝わっていないときは、コミュニケーションといえません。きちんと伝わる日本語が使えるようになれば中級です。はっきりとものを言うことを学ぼうとしている人は、ようやく言葉を使うことの大切さ、中級レベルのコミュニケーションの価値に目覚めて、そこに進もうとする段階といえます。以心伝心による高度な共感のコミュニケーションは、その上のレベルにあります。

[引用文献:坂東眞理子『美しい日本語のすすめ』(小学館101新書・200910月)p.
2729]

◆【問題】:筆者の述べる「以心伝心による高度な共感のコミュニケーション」のメリットとデメリットについてまとめた上で、医師と患者のコミュニケーションにおける「以心伝心」と「共感」についてのあなた自身の考えを、750字以上800字以内で論述しなさい。


解答案

筆者の述べる「以心伝心による高度な共感のコミュニケーション」とは,相手を思いやり,時にはあえて言葉を慎むことによって,相手と一体になることを目指すものである。そのメリットは,対立や紛争を避け,それらに起因するマイナスの感情をあらかじめ遮断することにある。そしてデメリットには,言葉を発することを躊躇させたり,一方的な思いやりによる価値観の押しつけを助長したりすることが考えられる。
そもそも,以心伝心のコミュニケーションには,同質の人間による共通前提が必要となる。同じ場を長期間共有したり,本音の言葉によるやりとりがあらかじめ取り交わされたりしなければ,以心伝心は成立しない。日本社会には,比較的同質な知識や価値観を比較的長期間にわたり共有してきたという歴史があるからこそ,共感のコミュニケーションが成り立つことが可能だったのである。
しかし,現代のように,価値観も人々の持っている情報・知識レベルも様々である社会においては,「以心伝心」の考え方は,一方通行の悪しきコミュニケーションをもたらしかねない。とりわけ患者・医師間を考えた場合は,致命的なトラブルや医療訴訟を引き起こす元凶にもなりうるのである。
医師と患者は,情報や前提知識が異なるし,心理状況も異なっている。さらに,もし同じ状態に置かれたときに持つ感情も,大きく異なっているだろう。同じ事実に対して,医師と患者が同じ気持ちを抱くことはまずないし,それぞれの患者によっても様々に異なっている。
したがって,医師患者間のコミュニケーションにおいては,以心伝心や共感はめったに成立しないものと考えることが必要である。言葉を尽くし,たとえ相手との考え方の違いがあったとしても,言葉のやり取りによって解決を目指すようなコミュニケーション,つまり言葉による「対話」こそが,目指されるべきではないかと考える。(780字程度)


ご質問は,エコール麹町メディカルのinfoまで。

2012/04/20

【補講】合成の誤謬

経済学に,「合成の誤謬」(fallacy of composition)という用語がある。

ミクロ経済学上の理論をそのままマクロ経済学に応用してしまうと,結論が異なってしまう(誤りが生じてしまう)ことを説明する言葉である。

転じて,一般的には,個別的には正しい理論でも,全体的にみれば正しいとは限らないというもの,と意味でも使われる。

試験勉強,とくに医学部や国公立大の入試などの科目数が多く,覚えるべき項目の数が多い勉強においては,個別科目や個々の勉強において理想的な勉強量をそのまま実行することが,試験に最短で合格するためには,必ずしも最善とはならないようなことがある。

試験勉強にも,合成の誤謬が生じるということだ。
十分に注意されたい。

試験勉強に当たっては,合成の誤謬に陥らないように,科目全体の勉強量と質のバランスをチェックしながら進めていくことが大切になってくる。

私の書いていることは,一見すると「科目によっては,手を抜きなさい」と言っているかのように読めるかもしれないが,そうではない。
合成の誤謬に注意することは,考えることに手を抜くこととは違う。
特定の科目や分野や好きな勉強・作業にだけにエネルギーを注いで,その科目が伸びたとしても,試験科目全体の成績が落ち込んでしまいことがあるので注意しようということだ。

合成の誤謬を避けるためには,とにかく記録をつけることが大切だ。実施した勉強内容と達成度,それから,かかった時間も記録する。

5月1週目のGW(5/3)から大手予備校の全国模試も始まるから,月に1~2回ペースで受験して,「全国規模での」成績伸長度をモニターしていくことも大切だ。

予備校や学校の科目の先生は,教えている科目の成績にしか興味がない場合が多い。だから,模試などで客観的に自分の成績を管理していく必要がある。
を要する。

いずれにせよ,勉強を進めるにあたっては,さまざまなバランスを取ることが大切だ。「社会や理科は,後回しでも大丈夫」などと,どこかの本の受け売りを真に受けて,英・数ばかりに時間をかけ過ぎないように注意しよう。たしかに,英語や数学は,習得に時間がかかる科目ではある。しかし,理科の理論的分野や社会や国語だって,同じように早く始めておいた方が良いこともある。

試験科目の配点バランスや難易度,また受験生本人のスタート地点によっても,取るべきバランスは異なってくるはずなので,優等生や科目の先生の意見だけを参考にしてはいけない。

2012/04/10

【補講】思考のエコノミストになってはイケないという件について

「思考のエコノミスト」という蔑称は,たしか評論家・経済思想家の西部邁(にしべすすむ)さんが,どこかの月刊誌で言っていた表現だった。

 思考のエコノミストと言うのは,考えることにおいて効率性を追求する怠惰な人間のことで,何事も深く考えようとせず,考えることにおいて,なるだけ省エネ・省力化を図ろうとする浅はかな人のことをいう。

 思考のエコノミストは,即効性だけを求めるので,すぐに役に立ちそうにないアイディアや理論を軽視する。現実的な利得(たとえば試験に出る,他人から評価されるなど)のために知識を仕入れようとするので,決して在庫は持たない。自分の思考力を鍛えることに関心がなく,声が大きい偉い人の言うことを鵜呑みにする。

 思考のエコノミストは,省力化・効率化を第一の命題とするから,テレビや映画など即効性のあるメディアを好む。活字を忌避し,ボキャブラリーは最小限のもので済まそうとする。

 試験勉強においても,同じことが言える。とくに,勉強の初期段階においては,絶対に思考のエコノミーを追求してはならない。追求すべきなのは,時間の効率性,つまり無駄な時間を排除し,もっとも頭が冴えている時に思考を集中できる時間配分を設計し実施することである。

 「試験においては,出題されることが決まっているのだから,考えないで,覚えればいい」という人もいるかもしれない。たしかに,レベルの低下した一部の入学試験などにおいては,それで事足れり,なのかもしれない。しかし,難しい試験においては,そうではない。

 出題されるすべてのことを,覚えていられるか。根本の基礎的な理論や理屈を抜きにして,完全な暗記はあり得ない。理論・理屈の理解には,思考のトレーニングと,その内面化のための言語化の過程が必要になる。つまり,思考をフル稼働させ,じっくり・しっかり考える過程がどうしても必要になるのである。

 また,近年の医学部入試のように,既習の知識を組み合わせて,新出の課題を解かせるような問題を解けるようになるためには,かならず一度は,しっかりとした思考の訓練が必要になるのである。


 昨日は,例年よりやや遅めの桜の満開のなか,4月生(第1期スタート)の開講オリエンテーションが行われた。通学制の塾生のみなさんの前で,各先生方が強調されていたのは,つまりこういうこと。ただ覚えればいいというわけではない。理論をしっかり理解しなさい,理屈・理由がわかるようにしなさい,ということであった。

 折しも,神戸女学院大学の元教授で,思想家・武道家(?)の内田樹先生のブログでも,分野は異なるが,似たような趣旨のことが書かれてあるのを読んで,私は膝を叩いて喜んだのであった。


 内田樹先生のブログは,こちら。受験生もたびたび目を通すとよい。

 西部邁先生の「思考のエコノミスト」論(?)は,典拠が不明。たしか,エコノミスト批判の文脈で出てきたはず。

 以上,年度初めの余談でした。

2012/04/05

【過去問演習編】第1回補講:理想とする医師像,科学者としての医師

20124月号から「過去問演習編」の連載を始めました。

今回は、第1回講義「理想とする医師像、科学者としての医師」より、問題1の解答例(雑誌掲載の答案と別解)を掲載します。

◆問題1:以下の文章を読んで、問いに答えなさい。[信州大学医学部 2011年度入試《前期》]

◆問題文は省略(赤本か『医歯薬進学』20124月号をご覧ください。)

問:著者は医師像を,ブラックジャック型(最先端医療専門医)と赤ひげ型(地 域のかかりつけ家庭医)の二つに分けて論じている。あなたの目標とする医師像が,(1)ブラックジャック型,(2)赤ひげ型,(3)両者の混合,(4)両 型のいずれにも該当しない,のいずれかを,その理由を明らかにして600字以内で述べてください。

◆解説:

この種の問題の「問題点」は,出題者の意図を捉え難いところにある。論文を書かせようとする問題なのか,あるいは単に,受験生の態度・考え方を書かせようとする(作文)問題なのか,わかりにくいところが確かにある。しかし,問いの中に「その理由を明らかにして」と書いてあることから推察できるのは,少なくとも,しっかりした根拠から主張を導くことが出来ているかどうかが大切だということである。出題者は,きちんとした論文を書いてほしいと考えている可能性が高い。

実際の入試において「あなたの理想の医師像は何か」というような問題が出された場合は,単なる作文ではなく,「論文」として書くほうがよい。つまり,今回の出題に対するのと同じように,客観性をもつ根拠・理由を用いて主張を展開するとよい。仮に,出題者が,単なる「心構え」(私はこのように頑張ってこういう医師になりたい等)を述べさせる「作文」レベルのものを求めていたとしても,「論文」を書いて落とされることはない。実際には,作文程度のもので合格できる試験であればなおさら,論文を書けば上位の点数で合格できる。安心して「論文」を書くようにしよう。

さて,この問題へのアプローチを説明しよう。

課題文が提示され,その後に問いが出されているようなタイプ(「課題文読解型」と呼ぼう)の解答を作るときには,まず,課題文に書かれてある論点を明確にしておかなければならない。

課題文の論点は,「お金と医療」である。課題文の著者は,「お金の前に医療がある」日本型のシステムと,「医療の前にお金がある」アメリカ型のシステムを比較し,アメリカ型に移行している(=利益の追求が求められている)ことが,日本における医療者のアイデンティティ・クライシスや医療崩壊の原因になっていることを説いている。

アイデンティティ・クライシスとは,直訳すると,「自己同一性の危機」,あるいは「自我の危機」という意味であるが,もっとわかりやすく説明すると,「(医師が)自分が何を目的として,何のために医師をしているのかわからなくなっている危機的状態」ということである。著者によれば,「患者を救ったという満足感」「市民からの尊敬」「患者の幸福」「人情」など,医師としての精神的な価値(=医師である目的)と,「利益追求」というアメリカ的・資本主義的価値の「折り合い」が付けられなくなっている現状が,医師のアイデンティティ・クライシスや医療崩壊の原因であるというのだ。

ここで注意をしてほしいのは,課題文の論点でフォーカスされているのは,「お金」と「医療(医師としての価値観)」の対比構造であって,「赤ひげ型」と「ブラックジャック型」の対比構造ではないという点である。赤ひげもブラックジャックも,“実際には”,裕福な患者からは高額な医療費をとり,貧しい患者からは医療費を取らない,「人情的な動き」もしていたのである。(山本周五郎原作の小説や手塚治虫の原作を読まなくとも,本文にきちんと書いてある)。

赤ひげは「かかりつけ医の源流」として,ブラックジャックは「外科医志望者の源流」として,それぞれの医師のタイプのモデルとなっているが,どちらもお金との折り合いをつけていたのである。

赤ひげは江戸時代の人,ブラックジャックは無免許医で,どちらも「自由診療」をしている。これが,現代の日本の医師との違いである。解答を作成する受験生の皆さんは,現代日本の医療保険制度の中で,経済合理性や経営目標など「お金」の問題と折り合いをつけながら,どちらのタイプの医師を目指すのかを答えなければならない。課題文を無視して答案を作成することのないように気をつけてほしい。

以下の解答案は,そもそもの医師の目的を「患者を死から遠ざけること」と定義し,その目的に沿うように自分の目標を設定させることで組み立てた。

課題文から読み取った,「お金と医療」のジレンマという論点への言及も忘れないようにしたい。解答案では,自分の選択が長期的には「社会全体の医療コストを下げる」ことに役立つと述べておいた。

◆◆解答案1◆◆(雑誌掲載文と同じ)

私の目標とする医師像は,最先端の医療知識を持つ専門医である「ブラックジャック型」である。以下,その理由を述べてみたい。

そもそも,医師の目的は,病気を治療することである。治療とは,究極的には患者を死から遠ざけることに他ならない。したがって,死の危険にある人を優先的に救うことは,医師に要請されている義務だと言ってもよい。実際,難病に苦しむ人の多くは,治療法や治療薬が確立されていないために死と隣り合わせに生きている。緊急性と重症度が高いにもかかわらず,本来であれば最優先で受けられる治療が受けられないでいるのである。

たしかに,病気の予防,日常的な軽度の疾病の治療なども,医師としての役割の一つである。しかし,これらは公衆衛生や日常的な健康管理により対応可能であるし,また,コ・メディカルの業務拡大によって対応可能な分野でもある。むしろそうすることで,社会全体の医療コストも抑えられるはずだ。

他方,重篤で死の危険にさらされている人の治療に必要な専門医は希少である。先端医療の専門医が増えることにより,臨床応用がさらに進み,高度な技術を安全かつ安全に提供できるようになるだろう。私は,せっかく医師になるならば,先端医療専門医を目指したい。こうして専門に特化することによって開発された技術や治療法は,時がたてば一般に普及し,最終的には多くの患者のメリットになるだろう。

◆◆解答案2◆◆(雑誌未掲載)

私の目標とする医師像は,頼りにできる総合医の「赤ひげ型」である。以下にその理由を述べる。

そもそも,医師の目的は,病気を治療することであるが,医療技術は万能ではない。医療とは,精神的なケアや日常の健康管理,予防といった総合的なコミュニケーションを含めて成り立っているのである。その意味で,地域に根づき,実際の患者とじっくりと向き合う医師が安定して存在し続けることは,何よりも大切である。

たしかに,先端医療技術を追究することによって救われる人命もあるだろうし,そのような技術を担う専門医の存在も重要である。しかし,死に至る疾病の多くは,慢性的な生活習慣や,新しい感染症,あるいはうつ病などの精神の病などである。こういった疾病が重症化するのを防ぐには,プライマリーケアを担う赤ひげ型の良医が不可欠である。また,医療を治療から予防へシフトさせることは,社会の医療コストをさげることにつながり,国民全体の健康の増進にも役立つ。

私は,社会からより強く求められているのは,赤ひげ型の良医であると考える。知識と技術だけでは,良医になることはできない。それらに加えて,ことばの説得力や,制度・組織の圧力にもめげない強靭な精神力も必要になる。昨今の医療を取り巻く「利益追求」という流れに抗い,誰もが公平に医療を受けられる社会を実現するには,制度の整備だけでなく,赤ひげを目指すことが必要なのである。

2011/12/09

月刊『医歯薬進学』2012年1月号 補講 メディアリテラシーなど(1)

今月号(2012年1月号)は,「3.11以後の日本とメディア・リテラシー(原発問題を素材に考える)」というタイトルで講義を行なっている。塾のブログでも告知したとおり,今回の講義は,今年(2011年=平成23年)3月11日に起きた未曾有の大震災をテーマとしてるが,震災そのもの,あるいは原発事故そのものをテーマとして考えたものではない。むしろ,今年の入試のみならず,今後の試験問題にも大きなテーマを提供してくれるのは,大震災をめぐる言説のあり方である。

 説明するまでもないが,この大惨事は様々な意味でエポック・メイキングな出来事であった。とりわけ知的な人間であろうとする私たち受験生や教師たちにとっては,いままでの物の考え方そのものを根本的に見直さざるをえなくなったという意味においても,大きな変化を強いる大事件であった。

 政府やメディアによる報道,科学者の発言や分析について,どのような態度で向かい合い,どのようにして意見を構築したり,意思決定したりすればよいのだろうか,という疑問は,素朴なレベルでは,マスコミの報道や町の声(TVのインタビューやSNSなどWeb上でのおしゃべり)においても聞くことができる。しかし,この「疑問」は,たんなる不平不満(ぶーたれて文句を言うこと)を超えて,真剣に向き合い,解決すべく努力しなければならない「課題(問題)」なのである。

 要するに,何が言いたいのかと言うと,大学入試で出題されるポイントがあるとすれば,まさにココである,ということである!

 「ココ」というのはどこ?
・震災をめぐる報道やメディアのありかた
・「メディアリテラシー」の必要性
 →批判的・分析的読み,それらを経た発言,それから,これらを踏まえた「市民的身だしなみ」(民度!)
・「クリティカルシンキング」「サイエンティフィック・リテラシー」の必要性

 これらがポイントである。中長期的に,社会の課題,科学の課題として,公共的市民が考えていかなければならないようなテーマは,まさにこれらなのだ。

 いま,さまざまな予備校や出版社が,「3.11以降の小論文・面接問題」の予想を立てているが,これらの問題に触れていないものは,まったく的外れであるので気を付けた方がよい。防災対策や震災後のセラピーなどについても,もちろん問題としての重要性がないというわけではないが,これらは,短期的でかつ専門的すぎるテーマである。

 一方,小論文で問われるのは,社会的になかなかコンセンサスが得られないような,中長期的なテーマで,かつ,生き方や考え方(倫理や思想)が深く関係しているようなテーマである。したがって,大震災以降の中長期的な課題として今後ますます考えなければいけないようなテーマについて,まず受験生である皆さんが考えておく必要があるのである。(大学の先生方=出題者も,自分では答えがまだはっきり見つからないようなテーマを出題したがる。かく言う私とて同じである。。。)

 続きは,12/12日の発売後に!








2011/11/12

医歯薬進学 12月号補講 「コミュニタリアニズム」とは何か(その一)

「コミュニタリアニズム」とはどのような思想か。本誌(医歯薬進学201112月号)には,簡単な説明しか掲載できなかったので,ここでやや詳しく説明しておこうと思う。

コミュニタリアニズム Communitarianismと聞くと,私より上の世代の人たち(50歳代より上の人たち)の中には,「共産主義?」という思想を思い浮かべてしまう人もいると思う。しかし,20世紀的イデオロギーである共産主義 Communism とは直接的には関係がない。共産主義は,19世紀後半に,マルクスとエンゲルスによって体系化され,20世紀の後半まで大きな影響力を持ったが,マルクス主義の思想に依って共産主義革命政権を打ち立てたソビエト連邦が崩壊し(冷戦の終結),事実上「過去の」思想となってしまった。(ただし,いわゆる共産主義や社会主義を標榜する国家はいまだ存在する。中国,ベトナム,ラオス,キューバ,北朝鮮である。)

さて,コミュニタリアニズムは,共産主義ではなく,「共同体主義」とか「共同体論」と訳されている。NHK「ハーバード白熱教室」のマイケル・J・サンデルが有名になってから,日本でもコミュニタリアニズムが脚光を浴びるようになったが,つい最近までは「伝統的な共同体の価値を個人の自由よりも優先する保守思想」というような通り一遍の理解が一般的であった。「共同体」という言葉のイメージからか,どちらかというと保守的で右派的な政治思想であるかのように語られることが多かったのである。

しかし,これらの理解は,ほとんど的を得ていないばかりか,コミュニタリアニズムの主張の真意とはほとんど関係がない。コミュニタリアニズムは,個人の「自由」や「権利」,リベラリズム(自由主義)の思想そのものを否定するものではない。コミュニタリアニズムが批判するのは,既存の自由主義が前提にしている「権利を基調とする普遍的正義」の考え方である。コミュニタリアンであるサンデルたちが主張するのは,社会や共同体の「目的telos」や「善good」を定義せずして正義や倫理は語れないということであり,リベラリズムが切り捨てた「善」,とりわけ「共通善」の考え方の復活なのである。

 リベラリズム(自由主義)は,J・ロックやカント,そしてJ・ロールズなどによって定式化され洗練されていた思想だが,基本的に「人はそれぞれ個人に固有の善(目的)を持って生きている」ため,そのような「善」を基底にすえた普遍的な正義は成り立たないと考える。リベラリズムは,義務や権利を基底とする普遍的な正義を構想し,個人や共同体の価値にはあえて関心を向けようとしない。簡単に言えば,「人それぞれ違うんだから,皆が何を大切にしているか,重要な価値と考えているのはなにかについては触れないでおこうね」,となる。それに対して,コミュニタリアニズムは,「人それぞれ多様だけれども,同じ社会を営むのだから,共通の価値を探し出す努力をしなければだめだよね」,という具合に答える。

 リベラリズム(自由主義)は,国家による福祉を重視する「リベラリズム」(ロールズ的自由主義)から,個人の所有権と自由市場を重視する「リバタリアニズム」(自由至上主義)までさまざまなバリエーションがあるが,コミュニタリアニズムは,国家による再配分(大きな政府)や市場による分配(小さな政府)のどちらにも組せず,あくまで自由主義の範囲内であるが,中間的共同体,つまり家族や地域コミュニティーなどにおける自治的な政治の重要性を強調する。イギリスのブレア政権(新しい労働党)の中道左派路線にも影響を与えた政治思想で,政策的には,社会民主主義的な平等と福祉を重視する。

 コミュニタリアニズムは,論者によってもさまざなな主張があるので,一概に括って説明することが難しい思想であるが,「共通善」を見出そうとする努力,そしてそれらの政治的な努力を市民に要求するという点において,共通の特徴がある。なお,コミュニタリアンは,古代ギリシャの哲学者・アリストテレスの倫理学に依拠して論じることが多いが,それは,アリストテレスの目的論と,「徳」(アレテー)の考え方を受け継いでいるからである。(センター試験の科目「倫理」を選択している人は,もういちどアリストテレスの倫理学について復習してみよう。サンデルを読むときにも役立つはずだ)。